江戸時代は金銀を含む鉱石のことを「鏈(くさり)」や「鏈石(くさりいし)」と呼んでいました。
1749年(寛延2年)に佐渡奉行所で書写されたとされる『佐州産物志』に「金銀石種類多シ」とあり、金石の名前が「カスゲ」など38種、銀石の名前が「白マサ」など54種あり、金銀合わせて92種の鉱石名が記されています。
また、1800年代の技術書といわれる相川郷土博物館所蔵の「金銀山大概書」に鉱石の品位を上中下の3種に分けた図があり、金は「カスケ筋鏈上」「カスケ中鏈」「カスケ下中」、銀は「白佂銀鏈上」「白佂中鏈」「白佂下中」とあります。
現存する鉱石は近代の産出で、品位は当時の“下中”と似通っております。
石英中に銀黒(ぎんぐろ)と呼ばれる黒い帯状の筋が入っており、さらに相川金銀山・鶴子銀山・新穂銀山の三鉱山の鉱石は同じに見え識別できません。
つまり、佐渡島内で金銀が産出された鉱山遺跡29か所の鉱石は、ほぼ同様に見え、識別しにくいものと思われます。
西三川砂金山「大流し」について
江戸時代、佐渡の砂金採り技術が北海道に渡りました。
1859年(安政6)に蝦夷地(北海道)渡島半島の後志利別川上流で砂金が発見され、箱館奉行は砂金山開発にともない、佐渡奉行に砂金山の採掘技術の伝授を依頼します。
これにより、西三川砂金山の技術に熟達した5名が1860年(安政7)から2年間、蝦夷地へ技術指導に赴きました。彼らによって蝦夷地に導入された「大流し」に代表される西三川砂金山の砂金採取技術は、明治以降も「切り流し」と称して継続して行われました。
※ 北海道への砂金採掘技術の伝播(佐渡西三川の砂金山由来の農山村景観 保存調査報告書)
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「大流し」とは、西三川砂金山の砂金採取技法です。
ダム(堤)と長距離水路を作り、水路上の砂金を含有する山の斜面を掘り崩し、意図的に人工洪水を発生させ、大量の水で土砂を洗い流して砂金を採る手法です。
笹川集落の奧にある虎丸山には、砂金を採るために崩した山肌が確認できます。
『佐渡年代略記』や『佐渡風土記』(コマ番号108/328)などの史料に、
文禄2年(1593年)3月15日に「西三川金山始」とあります。
また、『佐渡志』によりますと
「文禄2年夏霖雨、同3年又霖雨 田圃を損ふ事多し是を文二文三の洪水と言伝えたり」
(コマ番号65)では、文禄2年6月の洪水で度津神社の社殿が流されたとあります。
下黒山倉内勘十郎所有の竹やぶも流されて、西三川の茶の木及び安楽寺の所有地に漂着したと言われている。(真野村志)
真野町史編纂委員会(1981)『真野町史 年表』真野町教育委員会.
文禄二年からのゴールドラッシュは、記録的な大洪水によって下黒山の倉内勘十郎家の竹藪が千切れて川を下り、西三川砂金山虎丸山下の曲がりで本流の川を塞き止め、行き場を失った奔流が地を削って支流十五番川の滝下に流れ込み、洪水の治まった後に思いがけない砂金の湧き出しを見たことにはじまった。
小菅 徹也(2000)『金銀山史の研究』高志書院.
洪水が終わった後、至る所に光る砂金が顔を出していたそうです。
つまり、「大流し」の技法は、文禄2年(1593年)の洪水がきっかけで発展しました。
2022年春、「佐渡島の金山」の世界遺産登録の国内推薦が決定されました。
禍を転じて福と為す。
430年前の再来を待ちましょう。
#佐渡金銀山を世界遺産に !