赤玉石は佐渡市赤玉地区にしか産出されない赤い石の呼称です。
赤玉集落を流れる3本の川のうち、杉池を源流とする真ん中の「中川」の流域にしか産出されておらず、俗に言うレッドジャスパーや赤石とは異なる固有のものです。
1984年の赤玉地区 棚田基盤整備完工以降、赤玉石は産出できなくなりました。
赤玉石の歴史 ①
古来より赤玉石は魔除けや吉祥をつかさどる縁起石として重宝されてきました。
佐渡市新穂地区の新穂玉作遺跡(弥生時代中期後半)では赤玉石が管玉、勾玉として加工されていたことがわかります。
下新穂と新穂舟下にわたる海抜約10メートルの水田地帯にある。「玉作遺跡」とは弥生時代中期後半に細形の管玉を製作していた集落遺跡のことで、指定の遺跡は国中平野に十数ヵ所点在する「佐渡玉作遺跡」の内、新穂地区の「小谷地遺跡(竹の花遺跡)」・「桂林遺跡」・「平田遺跡」・「城畠遺跡」の4遺跡の総称である。
出土品は土器・石器・木製品などで、このうち土器は近畿地方と密接な関係をもつ櫛描文土器が主体である。玉はヒスイや碧玉(青玉石)・鉄石英(赤玉石)などの美しくて硬い石で作られた勾玉・管玉・角玉・三角玉などで、装身具に使用されたと推測される。
新穂玉作遺跡は昭和13年(1938)に発見されて以来、製玉技法が研究され、その後、佐渡国中平野一帯を始めとして越前・越後の各地でも弥生時代の玉作遺跡の存在が明らかになった。指定の遺跡は玉作遺跡研究の端緒として、玉作遺跡の多い佐渡の代表的な遺跡である。
赤玉石の歴史 ➁
1749年(寛延2年)に佐渡奉行所で書写されたとされる『佐州産物志』に
〇物加茂郡赤玉村ニアリ其色丹フメ珊瑚ニ似テ無光或黄白の紋ヲ帯ルモノアリ國俗琢磨メ壓口(圧口・ヲジメ・緒締め)トス
「赤玉石の色は赤く珊瑚に似ている。艶がないものや、黄色白色の模様のあるものもある。
普段から研磨し緒締め(袋の口ヒモを通して締める穴の有る玉)を作っている。」とあり、
江戸時代中期に西三川村で産出される紫石(紫水晶)とともに赤玉石は装飾品として加工されていたことがわかります。
また、江戸時代の初め、佐渡奉行によって赤玉石が江戸城へ献上されたとあります。
村名の「赤玉」は銘石赤玉石の産出することから付けられたものである。
赤玉石は佐渡銘石として名が高い。江戸時代の初め佐渡奉行によって、江戸城へ献上された赤玉石が今も皇居の「連翠の庭石」として飾られているという。また天保八年(1837)江戸幕府朝倉播暦守より赤玉砂利四斗ばかり御用の旨の達しがあった(年代記)。両津市誌編纂委員会(1982)『両津市誌 町村編 上巻』両津市役所.
江戸城へ献上された赤玉石は吹上のお庭(火除明地)に据えられました。
江戸幕府も魔除けや吉祥をつかさどる縁起石である赤玉石の魅力に気付いたのでしょうか
皇居宮殿・連翠の北庭に鎮座する赤玉石はGoogleマップの航空写真で確認できます。
赤玉石は3個確認でき、一番大きな赤玉石のサイズは地図の縮尺などからW160 D120 H130㎝くらい重量1トン強と推定されます。
北側の庭は、周囲にサツキの植込みをめぐらし、それに松 ・クチナシ・寒椿をまぜている。中央はいちめんの白河砂。白砂の上に置かれた巨大な三個の佐渡赤玉石。白と赤の対照がうつくしい。この赤玉石は、江戸時代佐渡奉行から幕府に献上され、吹上のお庭に据えられてあったものを、ここへ移されたのである。
渡辺義雄(1969)『宮殿』毎日新聞社.
赤玉石の歴史 ③
1984年(昭和59年)赤玉地区の棚田基盤整備完工以降、赤玉石は産出できなくなりました。
赤玉地区の棚田は、基盤整備以前は土砂災害の発生地域で、幾度となく災害に見舞われており、そのたびに赤玉石が産出され、復興の足掛かりになったと言われています。
そして現在、将来にわたり赤玉石は産出できません。しかし、赤玉石の価値を守り・伝え・活かすことにより、ふるさとへの愛着と誇りを醸成し、赤玉石の歴史を磨き上げ国内外に発信することで交流人口の拡大を図り、持続可能な発展を目指すことは可能です。
佐渡市の鳥がトキ、花がカンゾウであるように
サステナブルな社会を目指し、赤玉石が佐渡市の石になることを望んでいます。
#赤玉石を佐渡市の石に!