名称・原材料 いご草(新潟県佐渡 七浦海岸産)
内容量 50g
税込み価格 1,200円
昔から地元人の大好物、佐渡の郷土食「いごねり」の原材料の海藻です。
一袋を使い切りましょう。
はじめ水につけおきて
きれいに洗い
火にかけます。
うすくのばして
くるくる巻いて細切りに
いち番合うのは ネギと醤油です。
※※(佐渡での食べ方)
作り方は、下記の「さどごはん」30・31ページもご覧ください。
めおと岩のある高瀬地区は31ページの作り方です。
作り方のポイント
- 初めが肝心です。ゴミをしっかり取り除きましょう。
また、板に薄く伸ばすとき、ゴミ(溶けない海藻)をみつけ、楊枝などで取り除いて下さい。
これをちゃんとすると、おいしさ倍増です。
※ 最初のゴミ取りが重要なポイントです。 - 作っても、すぐに食べないこと。
1~2日ぐらい冷蔵庫で寝かしたほうが、コリコリ感が増し、おすすめです。
地元人が好む食べ方は「イゴネリを2分巾(約6㎜)に切り、ネギの薬味で醤油ぶっかけ」です。
「いごねり」は佐渡の郷土料理です。古くからハレの日や特別な日のおもてなしに必ずありました。
佐渡の「いごねり」は薄くのばして、くるくる巻いておきます。食べるときに細く(うどん状)きります。お弔い時は酢を入れて「いごねり」を切れやすくしたとも言われています。
佐渡の「いごねり」の食しかたは、甘味を入れた食べ方はしません。
新潟では、「えご」や「えごねり」と言います。
薄くのばさず、くるくる巻かず、こんにゃく状に固め、それを切って食べます。食べるときの形状も佐渡と違います。
食べ方も酢味噌をかけていただくのが基本ですが、砂糖をかけて食べることもあったようです。
「いご草」は佐渡に古くから伝わる郷土料理「いごねり」の原材料です。
「いごねり」は、1589年(天正17)に上杉景勝・直江兼続が佐渡に侵攻し平定したことにより広まり、新潟(本土側)では「えご」と呼ばれています。
山形県でも食文化があるのは1601年(慶長5)に上杉景勝が米沢に移封されたことが起因すると思われます。
つまり、いごねり文化は上杉藩が一翼を担っていたと推察されます。
「いご」と「えご」の違いは、「良い」を東日本は「いい」、西日本は「ええ」と言っているのと関連がありそうです。
1737年(元文2)頃に成立したと思われる『佐州産物志』に、「いご草」と見受けられる海藻が「イギス」とあります。
説明に、「此物附海岩而生ス形石花菜ニ似テ其色淡紅賎民採テ糧食ス」
(イギスは海の岩に生え、テングサに似て、うす紅色の海藻で、身分の低い人が採取して食します。)とあります。
上杉景勝や直江景勝が食したであろう「いごねり」を約140年後の佐渡奉行所の産物帳編纂者は賎民の食物と蔑んでいます。
順徳上皇も食された「スガナ」や殆どの海藻が「賎民採テ糧食ス」とありますので、佐渡奉行所の編纂者は海藻に馴染みのない地方出身者だったのでしょうか。
一方、1738年(元文3)に成立した福岡藩の『筑前国産物帳』では「うけうと」とあり、これが「おきゅうと」に変化したと思われます。
現在「イギス」は鳥取県などで郷土料理として食されており、九州の島原地方や天草地方に「イギス」が訛った「イギリス」という郷土食がありますが、吉利支丹と関連はないそうです。
海藻図鑑によると、「イギス」は「イギス目イギス科イギス」で、いご草とは異なるそうです。「いご・えご・おきゅうと」の海藻は「イギス目イギス科えごのり」とあり、生育域は北海道・本州・四国・九州と日本の広域で採取可能みたいです。九州は「おきゅうと」、佐渡は「いご」と呼ばれますが、北海道では何と呼ばれているのでしょうか?
北海道といえば江戸時代に北前船で佐渡と交易がありましたが、”砂金“で北海道と佐渡に交流があったのをご存知でしょうか?
1859年(安政6)に蝦夷地(北海道)渡島半島の後志利別川上流で砂金が発見され、箱館奉行は砂金山開発にともない、佐渡奉行に砂金山の採掘技術の伝授を依頼します。
これにより、西三川砂金山の技術に熟達した5名が1860年(安政7)から2年間、蝦夷地へ技術指導に赴きました。
彼らによって蝦夷地に導入された「大流し」に代表される西三川砂金山の砂金採取技術は、明治以降も「切り流し」と称して継続して行われ、「一攫千金を目指しゴールドラッシュに沸いた北海道」へとつながっていきます。
※ 北海道への砂金採掘技術の伝播(佐渡西三川の砂金山由来の農山村景観 保存調査報告書)
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「大流し」とは、西三川砂金山の砂金採取技法です。
ダム(堤)と長距離水路を作り、水路上の砂金を含有する山の斜面を掘り崩し、意図的に人工洪水を発生させ、大量の水で土砂を洗い流して砂金を採る手法です。
笹川集落の奧にある虎丸山には、砂金を採るために崩した山肌が確認できます。
『佐渡年代略記』や『佐渡風土記』(コマ番号108/328)などの史料に、
文禄2年(1593年)3月15日に「西三川金山始」とあります。
この、文禄2年(1593年)の「再興」と「大流し」の関連はあるのでしょうか?
『佐渡志』によりますと、
(コマ番号63/143)
「文禄2年夏霖雨、同3年又霖雨 田圃を損ふ事多し是を文二文三の洪水と言伝えたり」
(コマ番号65)では、文禄2年6月の洪水で度津神社の社殿が流されたとあります。
文禄2年(1593年)に佐渡は各所で大規模な洪水(災害)があったみたいです。
下黒山倉内勘十郎所有の竹やぶも流されて、西三川の茶の木及び安楽寺の所有地に漂着したと言われている。(真野村志)
真野町史編纂委員会(1981)『真野町史 年表』真野町教育委員会.
文禄二年からのゴールドラッシュは、記録的な大洪水によって下黒山の倉内勘十郎家の竹藪が千切れて川を下り、西三川砂金山虎丸山下の曲がりで本流の川を塞き止め、行き場を失った奔流が地を削って支流十五番川の滝下に流れ込み、洪水の治まった後に思いがけない砂金の湧き出しを見たことにはじまった。
小菅 徹也(2000)『金銀山史の研究』高志書院.
洪水が終わった後、至る所に光る砂金が顔を出していたそうです。
つまり、「大流し」の技法は、文禄2年(1593年)の洪水がきっかけで発展しました。
2022年春、「佐渡島の金山」の世界遺産登録の国内推薦が決定されました。
コロナ禍が落ち着いた後、至る所に光るものが顔を出してくるはずです。
禍を転じて福と為す。
イゴネリを作って食べながら、そのトキを待ちませう。